言葉のもともとの厳密な定義にどこまで従うか

言葉には当然定義があって、本来はその定義に沿って使用される。でもその言葉が良く使われるようになったりすると徐々に使われ方が変わってくる。
例えばブログ。個人が簡単に情報を発信できるようになり、しかもTBによって記事の相互リンクができるようになったことで、ウェブ上での議論の敷居を大幅に下げたものだが、もともとアメリカではジャーナリスティックなものだったはず。しかし日本で広まると、元々あった日記文化を背景に日記ツールとして認識され、今じゃトラバも受け付けない、コメント欄もないものもツールを使っていればブログと認識されるようになっている。
「本の内容をマインドマップに落とそう」、という内容の本を買ったのだが、この本に対するレビューをアマゾンで見ると、2種類のレビュワーがいることに気づく。1つはこの方式はマインドマップであるというレビュワー。もう1つは、これはマインドマップなんかではなくただの図説であるというレビュワー。マインドマップはもともとブザン氏が考案した方式で、ブザンジャパンいわく脳の潜在能力を引き出す技術。そしてブザンジャパンは12のルールを設けている。
さて、問題の本だが、ルールを厳密に適用したら、確かにマインドマップとは言いがたい。しかし情報の派生こそないが、実際に放射線状に引っ張って情報を書き出し理解や記憶のしやすい形にしているのだから、マインドマップ風なところもある。
これはマインドマップと言っていいのか、否か。本来の定義で言えば否。しかし本来の定義・あるべき形を言い出したら、ブログという言葉だって誤用だらけである。どこまで本来の定義に従うべきか。時代が決めるのを待つしかないんだろうか。待つしかないんだろうな。結局言葉の使い方はマジョリティが決めるもんなんだから。

ちなみに当方、マインドマップというワードが出てくる本を読んだのはこれが初めてなので、正直マインドマップってのを正確に把握していない(汗。
今後1冊は買って読んでみる予定。